漢方の歴史、中国伝統医学の歴史 |香川県高松市の「漢方薬局・元気通り」
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漢方の歴史年表(中国・日本)
ここでは、中国伝統医学と(日本)漢方の歴史と、それに影響を与えた蘭学、西洋医学の流入について年表として記載してみます。中国の出来事 | 中国《日本》の時代 | 年代 | 日本の出来事 |
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《縄文時代》 | 紀元前10000年頃 | ||
新石器時代 | |||
最も古い医療道具「砭石(へんせき)」(先端が尖った鋭利なもの、丸いものなど様々な形状がある)が作られる。 | 黄河文明 | 紀元前2100年以前 | |
伝説時代、三皇「伏羲(ふっき)、神農(炎帝)、皇帝または女媧」 | |||
「神農、百草を嘗む」の伝説。 | 夏 | 紀元前2100年頃 | |
「酒は百薬の長」 | ~ | ||
紀元前1700年頃 | |||
巫医(ふい)の活躍。甲骨文出現。 | 商(殷) | 紀元前1700年頃 | |
疾病(しっぺい)の名称出現。 | ~ | ||
針、灸、按摩、薬物(酒剤、湯剤)の治療。 | 紀元前1100年頃 | ||
前900年~前700年ごろ「易経(周易)」出現。孔子(紀元前479年没)の春秋時代に完成。 | 西周 | 紀元前1100年頃 | |
医事管理制度、審査制度、専業の医師出現。100種余りの薬物使用。 | ~ | ||
「周礼」によれば、望診、問診、脈診が行われ、治療に食事療法、薬物療法、手術が行われた。 | 紀元前771年 | ||
医学の巫術からの離脱。医爰(いえん、又は医緩:いかん)、医和などの医家が出現。 | 東周 (春秋時代) | 紀元前770年~紀元前476年 | |
『黄帝内経(「素問」、「霊枢」)』出現。 医家、扁鵲の活躍。 | (戦国時代)《弥生時代》 | 紀元前475年~紀元前221年《紀元前300年頃》 | |
「癘遷所(らいせんしょ)」建設。癩病患者の隔離。 | 奏 | 紀元前246年~紀元前217年 | |
淳于意(じゅんうい)「診籍(カルテ)」創成。 | 漢 | 紀元前210年~紀元前150年 | |
~ | |||
『神農本草経』成る。 | 紀元前31年~220年 | ||
『難経』成る。 | 25年~210年《57年》 | 奴国王が中国(後漢)に使いを送り、中国の光武帝が金印を授ける。 | |
鍼灸の名人、医家、郭玉(かくぎょく)、漢和帝の太医丞に任官される。 | 89年~105年 | ||
107年 | 倭の国から使者を後漢に送り、交わりを始める。 | ||
華佗(かだ)「麻沸散」発明、腹部手術を行い、また「五りん戯」を創案。 | 112年~208年頃《150年》 | このころ倭の国に大乱が起こる。 | |
張仲景『傷寒雑病論(「傷寒論」、「金匱要略」)』著す。 | 三国 | 200年~210年 | |
皇甫謐(こうほひつ)「鍼灸甲乙経」著す。 | 256年~282年《239年》 | 邪馬台国の卑弥呼が中国(魏)に使いを送る。邪馬台国は30余国を支配。 | |
王叔和(おうしゅくか)「脈経」著す。「傷寒論」と「金匱要略」の整理、再編。 | 266年~282年 | ||
葛洪「抱朴子」著す。 | 晋《古墳時代》 | ~341年《285年》 | 漢字が中国から伝わる。 |
350年 | このころ、大和朝廷が国内をほぼ統一する。 | ||
391年 | 大和朝廷の軍が朝鮮で高句麗と戦い、任那に日本府を設ける。 | ||
南北朝 | 420年 | ||
421年 | 倭王讃(仁徳天皇?)が、宋に使者を送る。 | ||
446年頃 | 朝鮮、新羅より、金武が来日。天皇の病を治療。 | ||
陳延之「小品方」著す。 | (宋と北魏) | 454年~473年 | 五世紀後半、もと高句麗人で百済に帰した徳来が来日。後の難波薬師の祖となる。 |
513年頃 | 五経博士、来日 | ||
中国鍼灸、朝鮮に伝えられる。 | 514年 | ||
インド僧・達摩、広州へ来訪。その後、嵩山・少林寺に移り、按摩術「一指禅」を伝える。 | 520年 | ||
陶弘景「本草経集注」など著す。 | 530年頃 | ||
538年 | 百済から仏教が伝わる(552年の説もある)。 | ||
医師を朝鮮に派遣 | 541年 | ||
550年 | 中国より灸治術伝わる。 | ||
552年 | 中国より「鍼経」が、欽明天皇に贈呈される。 | ||
554年頃 | 朝廷、百済に医博士の交代派遣と薬物送付を要請。 | ||
《飛鳥時代》 | 562年頃 | 中国より、呉人、知聡(智聡)「明堂図」など百六十巻を携え来日。 | |
文帝が隋を建国 | 隋 | 581年 | |
隋、中国統一 | 589年 | ||
604年 | 聖徳太子が十七条の憲法を定める | ||
608年 | 小野妹子、中国医学薬師、倭漢直福因(やまとのあやのあたえふくいん)や恵日を伴い、前年に引き続き隋に渡る。 | ||
巣元方(そうげんぽう)「諸病源候論」著す。 | 610年 | ||
唐、建国 | 唐 | 618年 | |
623年 | 恵日、福因が隋、唐の医方を学び帰国。遣唐使を上奏。 | ||
630年 | 遣唐使の派遣 ・・・第1回目、薬師の恵日など。 894年までの間、10数回送られる。 | ||
645年 | 大化の改新。 | ||
孫思邈(そんしばく)「千金方(備急千金要方)」著す。 | 652年 | ||
《奈良時代》 | 672年 | 壬申の乱 | |
孫思邈(そんしばく)「千金翼方」著す。 | 682年頃 | ||
701年 | 大宝律令の制定。医疾令制定。朝廷は典薬寮を設立、中国医学を導入。 | ||
710年 | 平城京に都を移す。 | ||
712年 | 古事記ができる。 | ||
王燾(おうとう)、「外台秘要(方)」著す。 | 752年 | ||
754年 | 鑑真、日本に渡り中国医学(漢方医学)を講授する。 | ||
王冰(おうひょう)、「素問」を注解し「補注黄帝内経」著す。 | 762年 | ||
781年 | 遣唐使、羽栗吉麻呂の子、羽栗翼(はぐりのたすく)内薬司正兼侍医となり皇室の医療を担当。 | ||
《平安時代》 | 794年 | 平安京に都を移す。 | |
799年 | 和気清麻呂の子、広世「新修本草」と「薬経太素」を講義。宮廷医和気(半井)氏の始まり。 | ||
804年 | 最澄と空海が唐に渡る。 | ||
805年 | 菅原清、唐に渡り中国医学を修め、後に帰国普及に努める。 | ||
806年 | 空海、傷寒論などを書き写し帰国。 | ||
905年 | 古今和歌集ができる。 | ||
五代・十国 | 907年 | ||
918年 | 深根輔仁(ふかねのすけひと)「本草和名」編纂。日本最古の本草辞書。 | ||
北宋 | 960年 | ||
984年 | 丹波康頼(912年~995年)、日本現存最古の医書「医心方」編纂。(陰陽五行説や脈論など、観念的、思弁的な部分は多く説略。) | ||
995年 | 藤原道長が右大臣となり、政治の実権をにぎる。 | ||
998年 | 日本僧・奝然(ちょうねん)、弟子を宋に遣わし、琥珀等の薬物を贈る。 | ||
王惟一(おういいつ)「新鋳銅人腧穴鍼灸図経」著す。 | 1026年 | ||
1041年 | 宋恵清、日本に赴き医療を行う。日本人・藤原清賢、眼病治療を求めて宋に入る。 | ||
1053年 | 藤原頼通が平等院鳳凰堂を建てる。 | ||
校正医書局、「素問」「傷寒論」「金匱要略」「脈経」「難経」「鍼灸甲乙経」「千金要方」「千金翼方」「外台秘要」などを刊行。 | 1068年~1077年 | ||
許叔微(きょしゅくび)「傷寒百証歌」「傷寒発微論」「傷寒九十論」「普済本事方」など著す。 | 1079年~1154年 | ||
唐慎微「経史証類備急本草(略称:証類本草)」著す。 | 1082年頃 | ||
1086年 | 白河上皇による院政の開始。 | ||
宋政府、裴宗元(はいそうげん)・陳師文らに「和剤局方」を編成させる。 | 1107年~1110年 | ||
宋政府、医官艾晟(がいせい)に「証類本草」の修訂を命じ、「大観経史証類備急本草(経史証類大観本草)」と改称 | 1108年 | ||
金の建国 | 金 | 1115年 | |
銭乙の弟子・閻考忠(えんこうちゅう)が銭乙の「小児薬証直訣」を整理編纂。 | 1119年 | ||
南宋の成立。 | 金・南宋 | 1127年 | |
1129年 | 鳥羽上皇の院政が始まる。 | ||
成無己(せいむき)「注解傷寒論」著す。 | 1144年 | ||
宋政府、「和剤局方」を許洪に校訂させ「太平恵民和剤局方」と改称、発刊。 | 1151年 | ||
1159年 | 平治の乱 | ||
1167年 | 平清盛が武士で最初の太政大臣になる。 | ||
劉完素(りゅうかんそ(河間))「黄帝素問宣明論方」著す。【寒涼派】〔温疫派〕 | 1172年 | ||
1185年 | 平氏が北九州にのがれ、壇ノ浦で滅びる。 | ||
張元素「医学啓源」「素問玄機原病式」著す。〔易水内傷派〕 | 1186年 | ||
1191年 | 栄西(1141年~1215年)が宋より帰り臨済禅を伝える。 | ||
《鎌倉時代》 | 1192年 | 頼朝、征夷大将軍となり鎌倉幕府を開く。 | |
チンギス汗の征西。 | 1219年~1224年《1221年》 | 承久の乱 | |
張従正(ちょうじゅうせい)「儒門事親」著す。【攻下派】 | 1228年 | ||
1232年 | 御成敗式目(貞永式目)がつくられる。 | ||
蒙古、金を滅ぼす。 | 元 | 1234年 | |
陳自明「婦人大全良方」著す。〔正宗派〕 | 1237年 | ||
1241年 | 弁円(円爾(えんに)、中国宋より数千巻の典籍を携え帰国。(内、中医書名30余部あり) | ||
李杲(りこう、李東垣)「内外傷弁惑論」著す。【補土派又は温補派】〔易水内傷派〕 | 1247年 | ||
李杲(りこう、李東垣)「脾胃論」著す。【補土派又は温補派】 | 1249年 | ||
巌用和(げんようか)「済生方」著す。 | 1253年 | ||
1268年 | 北条時宗が執権となり、元の使者を追い返す。 | ||
蒙古の元が北京を都に定める。 | 1271年 | ||
1274年 | 元寇(文永の役) | ||
1281年 | 元寇(弘安の役) | ||
1284年 | 宮廷医、惟宗具俊(これむねともとし)「本草色葉抄」著す。 | ||
1303年頃 | 僧医、梶原性全(1266年~1337年)、「頓医抄」著す。1315年には「萬安方」著す。 | ||
1333年 | 鎌倉幕府が滅びる。 | ||
《室町時代》 | 1338年 | 足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられ、京都に室町幕府を開く。 | |
滑寿(伯仁)「十四経発揮」著す。 | 1341年 | ||
朱震亨(しゅしんこう、朱丹渓)「格致余論」著す。【養陰派又は滋陰派】〔丹渓雑病派〕 | 1347年 | ||
滑寿「診家枢要」著す。 | 明 | 1359年 | |
1363年頃 | 禅僧、有林「福田方」著す。 | ||
朱元璋が明を興す。王履「医経溯洄集」著す。 | 1368年 | 足利義満が3代将軍になる。 | |
1378年 | 竹田昌慶、医書、本草書、鍼灸人体模型など携え、明より帰国。義満に仕える。 | ||
1392年 | 南北朝の合一。 | ||
劉純、「玉機微義」。 | 1396年 | ||
1401年 | 足利義満が明と貿易を始め倭寇の取りしまりを約する。 | ||
熊宗立、「医書大全」。 | 1446年 | ||
日本の僧医、月湖、明にて「全九集」著す。 | 1452年 | ||
1467年 | 応仁の乱が起こる。 戦国時代へ | ||
王璽、「医林集要」。 | 1482年 | ||
1498年 | 明に渡り、月湖に学んだ田代三喜(1465年~1537年)が金元医学、特に李朱医学を携え帰国。 | ||
1508年 | 坂浄運、明から帰国後「続添鴻宝秘要抄」著す。後に足利義政、後柏原天皇の侍医となる。(子孫は吉田盛方院家) | ||
虞摶(ぐたん)、「医学正伝」。 | 1515年 | ||
1528年 | 阿佐井野宗瑞、日本で初めて医学書を印刷出版。熊宗立の「医学全書」。 | ||
薛己(せっき)「内科摘要」「正体類要」「口歯類要」著す。高武「鍼灸聚英発揮」著す。 | 1529年 | ||
1531年 | 日本医学中興の祖と称される曲直瀬道三(1507年~1594年)【後世方派】が田代三喜に会い師事する。 | ||
1543年 | ポルトガル人が九州の種子島に鉄砲を伝える。 | ||
1549年 | フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来て、キリスト教を伝える。 | ||
1557年 | 宣教師ルイス・アルメイダ、豊後の府内で日本初の西洋式病院設立。 | ||
薛己(せっき(立斎))、「薛氏医案」。〔易水内傷派〕 | 1558年以前 | ||
1560年 | 桶狭間の戦い | ||
ポルトガル宣教師でマカオ区主教のメルキオル・カルネイロ、西洋医による教会病院建設。 | 1568年 | ||
1573年 | 室町幕府の滅亡。 | ||
1574年 | 曲直瀬道三『啓迪集(けいてきしゅう)』著す。 | ||
李梴(りてん)、「医学入門」。 | 1575年 | ||
李時珍「本草綱目」著す。 | 1578年 | ||
イタリアの宣教師マテオ・リッチ伝道に西洋医薬を利用。 | 1582年 | 本能寺の変 | |
呉崑、「医方考」。 | 1584年 | ||
1585年 | 秀吉が関白となる。 | ||
龔廷賢(きょうていけん)「万病回春」著す。 | 1587年 | ||
1590年 | 秀吉が全国統一。 | ||
方有執(中行)、新論法をもって「傷寒論条弁」著す。(王叔和版の訂正)〔弁証傷寒派〕 | 1591年(93年) | ||
趙開美、「仲景全書」。 | 1599年 | ||
1600年 | 関ヶ原の戦い | ||
《江戸時代》 | 1603年 | 徳川家康が征夷大将軍となり、江戸幕府を開く。 | |
王肯堂「証治準繩(六科準繩)」著す。 | 1602年~1608年 | ||
龔雲林(龔廷賢?)「小児推拿秘訣」著す。 | 1604年 | ||
1608年 | 曲直瀬玄朔(げんさく:二代目道三1549年~1631年)【後世方派】徳川秀忠の病を治し、江戸に招かれ以後、江戸と京都に隔年に居住。 | ||
龔廷賢「寿世保元」著す。 | 1615年 | 大阪夏の陣、豊臣氏が徳川氏に滅ぼされる。 | |
1616年 | ヨーロッパ船の来航を平戸と長崎に制限する。家康が死ぬ。 | ||
陳実功「外科正宗」著す。 | 1617年 | ||
張介賓(ちょうかいひん、張景岳)「類経」を著す。〔通俗傷寒派、易水内傷派〕 | 1624年 | スペイン船の来航を禁止する。 | |
1628年 | 名古屋玄医生誕(1628年~1696年)。周易筮儀に長け、「万病はすべて寒気の一に傷られるによって生ず」とし貴陽賤陰、扶陽抑陰を治療指針とし、「黄帝内経」「難経」「傷寒論」「金匱要略」「本草」など研究し、古典の重要性を説き古方派の始祖?と言われる。 | ||
1635年 | 日本人の海外渡航を禁じ、御朱印船を廃止する。 | ||
1639年 | ポルトガル船の来航を禁止する。鎖国の完成。 | ||
張介賓(ちょうかいひん、張景岳)〔易水内傷派、通俗傷寒派〕「景岳全書」を著す。 | 1640年 | ||
呉有性、「温疫論」著す。 | 1642年 | ||
明の滅亡、清王朝。 | 清 | 1644年 | 宗門改めの制を定める。 |
喩嘉言〔経典雑病派〕、「傷寒尚論編」著す。 | 1648年 | ||
1649年 | スハンベルゲン・カスパル来日。カスパル流外科を伝える。 | ||
1653年 | 戴曼公(独立性易)、長崎に渡り後に岩国で池田正直に治痘術を伝える。 | ||
1659年 | 後藤艮山生誕(1659年~1733年)。【古方四大家】。百病は一気の留滞に生ずると主張(一気留滞説)。順気をもって治療の綱要とする。古方派の祖と言われ、弟子は香川修庵や山脇東洋。 | ||
程応旄(ていおうぼう)〔弁証傷寒派〕、「傷寒論後条弁」著す。 | 1670年 | ||
1680年 | 綱吉が5代将軍となる。 | ||
汪昂(おうこう)「医方集解」著す。 | 1682年 | 長崎のオランダ通詞本木庄太夫(良意)がドイツ人、ヨハン・レムメリンの人体解剖図を翻訳し『和蘭全身内外分合図』を著す。出版は1772年。 | |
1683年 | 香川修庵生誕(1683年~1755年)。【古方四大家】。素問、霊枢、難経などを「邪説」とし「儒医一本論」を説く。「自我作古」。 | ||
汪昂(おうこう)「本草備要」著す。(西洋医学思想の流入あり) | 1694年 | ||
張ろ「張氏医通」著す。 | 1695年 | ||
1702年 | 吉益東洞生誕(1702年~1773年)。【古方四大家】。「万病一毒説」を説き、体内の毒は証拠が体表に現われ、その多くは腹診によって確かめることができるとし腹診を重要視する。強い作用をもつ峻剤を用いる攻撃的な治療を行い、近代的で西洋医学に通じるものと高く評価される。「天命説」を主張。 | ||
1705年 | 山脇東洋生誕(1705年~1762年)。【古方四大家】張仲景の傷寒雑病論を唯一無二の聖典と仰ぐ。 | ||
1713年 | 貝原益軒、「養生訓」著す。 寺島良安、「和漢三才図会」著す。 | ||
1716年 | 吉宗が8代将軍となる。 享保の改革。 | ||
1726年 | 松岡玄達、「用薬須知」著す。 | ||
呉謙ら「医宗金鑑」刊行。 | 1742年 | ||
1744年 | 和田東郭生誕(1744年~1803年)。【折衷派、泰斗】。「一切の疾病の治療は、古方を主として、その足らざるを後世方等を以て補うべし」と主張。 | ||
葉桂(ようけい、葉天士)〔温熱派〕、「温熱論」「臨証指南医案」著す。 | 1746年頃 | ||
1746年 | 山脇東洋、明版の「外台秘要方」翻訳、幕府に献上。 | ||
1750年 | 吉益南涯生誕(東堂の長男:1750年~1813年)。気血水説を創唱し、これによって傷寒論を解釈する。 | ||
1754年 | 京都六角獄にて、日本初の人体解剖が行われ、山脇東洋らが観察記録。1759年に「臓志」出版 | ||
外国からの伝道師の取り締まり。医学など西洋学術一般の禁止。 | 1757年 | ||
趙学敏「本草綱目拾遺」の中で阿片の害を警告。(西洋医学思想の流入あり) | 1765年 | 目黒道琢(1739年~1798年)【考証学】幕府直轄の医学館創建時、講師陣の一人として招かれる。 | |
1774年 | 杉田玄白・前野良沢らが「解体新書」を著す。オランダのクルムス著の医学書「ターヘル・アナトミア」を翻訳。 | ||
1790年 | 幕府、朱子学以外の学問を禁止する。(寛政異学の禁)。 | ||
呉鞠通〔温熱派〕、「温病条弁」著す。 | 1798年 | ||
1799年 | 尾台榕堂生誕(1799年~1870年)。【古方派】東堂の学統を継ぎ日本漢方界に絶大な影響力を及ぼす。 | ||
1801年 | 多紀元簡(1755年~1810年)。【考証学】「傷寒論輯義」著す。医官選抜の不正に異議を唱え、寄合医師に左遷。 | ||
1803年 | 小野蘭山、「重修本草綱目啓蒙」著す。 | ||
1804年 | 華岡青洲【和漢蘭折衷派】、六十歳の老女の乳癌を自身が創案した通仙散(麻沸湯)を用いて腫瘤摘出術に世界で初めて成功する。 | ||
近代西洋医学、牛痘接種法伝来。第二次西洋医学伝来期のはじまり。 | 1805年 | ||
1806年 | 多紀元簡【考証学】「素問識」著す。 | ||
1807年 | 森立之生誕(1807年~1885年)。【考証学】後に最後の考証医家と言われる。 | ||
1815年 | 浅田宗伯生誕(1815年~1894年)。【折衷派】維新後、皇室の侍医となり漢方の存続に尽力。 | ||
真正コレラ、インドより入る。 | 1817年 | ||
1818年 | 原南陽(1752年~1820年)、軍陣医学書、『砦草』著す。 | ||
イギリス人宣教師マリソン、マカオに西洋医学の診療所を開設。 | 1820年 | ||
清朝廷、鍼灸の禁止令を発布する。 | 1822年 | ||
1824年 | 医師、シーボルトが鳴滝塾を開く。 | ||
1828年 | 岩崎灌園、「本草図譜」著す。 | ||
王清任「医林改錯」著す。(血府逐瘀湯、補陽還五湯など) | 1830年 | ||
1831年 | 丹波元胤(たんばもとたね)「中国医籍考」著す。 | ||
アメリカ人宣教医師、ピーター・パーカーが広州に眼科医院開設。後に博済病院に発展する。 | 1835年 | ||
第一次アヘン戦争 | 1840年 | ||
不平等条約により、米国人は開港地に医学校、病院、教会を自由に開設できるようになる。 | 1844年 | ||
英・米人により広州、廈門(あもい)、寧波(にんぽー)、上海、福州などに西洋教会病院や診療所が開設される。 | 1844年~1848年《1845年》 | 多紀元堅(1795年~1857年)。【考証学】将軍家慶の侍医に。善本医籍の収集、校訂、復刻に努める。 | |
イギリス人宣教医師、ベンジャミン・ホブソンにより西洋医学書「全体新論」翻訳、出版される。 | 1851年 | ||
王孟英「温熱経緯」「王氏医案」など著す。 | 1852年 | ||
1853年 | 華岡流外科の大成者、本間棗軒(1804年~1872年)【和漢蘭折衷派】が日本初の下肢切断手術を脱疽患者に行う。アメリカの使節ペリーが来航し、浦賀で開国を要求する。 | ||
1854年 | ペリーが再び来航し、日米和親条約(神奈川条約)を結ぶ。鎖国の終了。 | ||
1855年 | 浅田宗伯【折衷派】、幕府の御目見医師に抜擢される。 | ||
イギリス、エジンバラ大学医学部で学び、医学博士となった黄寛が帰国、博済病院などにて診療。ベンジャミン・ホブソン、西洋医学書「西医略論」「内科新論」翻訳、出版。 | 1857年 | 森立之【考証学】「本草経攷注」著す。 オランダ海軍軍医ポンペ・ファン・メールデルフォールトと松本良順によって長崎奉行所西役所医学伝習所が開設される。後の長崎大学医学部の前身となる。 | |
ベンジャミン・ホブソン、西洋医学書「婦嬰新説」翻訳、出版。 | 1858年 | 伊東玄朴、大槻俊斎らが中心となり江戸に種痘所を設立。将軍家定の病に対し、蘭方医の伊東玄朴、戸塚静海が奥医師となり幕府内に蘭方が公的に持ち込まれる。井伊直弼が大老になり、アメリカ・ロシア・イギリス・フランスと修好通商条約を結ぶ。 | |
アメリカ人宣教医師ジョン・G・カー、広州の博済病院を運営。 | 1859年 | 安政の大獄 | |
ベンジャミン・ホブソン、西洋医学書「博学新編」翻訳、出版。 | 1859年頃 | ||
1860年 | 桜田門外の変により、幕府の権威は地に落ちる。 | ||
1861年 | 江戸の種痘所、西洋医学所と改名。後の東京大学医学部の前身となる。 | ||
1863年 | 薩英戦争 | ||
1864年 | 森立之【考証学】「素問攷注」著す。 | ||
1865年 | 浅田宗伯【折衷派】、幕命を受け横浜駐在中のフランス公使レオン・ロッシュの難症を治療。 幕府、第二次長州征伐に失敗。 | ||
陸九芝〔経典傷寒派〕「世補齋医書」著す。医学伝道会、ジョン・G・カー、広州博済医局内に博済医学校設立。 | 1866年 | 日本初の本格的西洋式病院である長崎、小島養生所がポンペの進言により設立される。 | |
1867年 | 大政奉還。王政復古の大号令。 | ||
《明治時代》 | 1868年 | 森立之【考証学】「傷寒論攷注」著す。 江戸時代の終焉。 五箇条の御誓文。 戊辰戦争の負傷兵の銃創の治療で西洋医学の優秀性が認識され、天皇の意思として「西洋医術の儀、御採用可有之、被御出候事」の布告出る。 明治時代の始まり。 | |
鄭寿全(欽安)(1824年~1911年又は1804年~1901年)【火神派】、「医理真伝」著す。 | 1869年 | 世界的に見て優秀なドイツ医学の採用決定。 | |
1872年 | 明治政府、学制を制定し西洋医学中心の教育制度を整える。 | ||
港湾における検疫が始まる。 | 1873年 | 徴兵令が出される。 | |
鄭寿全(欽安)【火神派】、「医法圓通」著す。 | 1874年 | 明治政府、「医制」を発布し、西洋7科に基づく試験制度、医業の開業許可を制度化。(医師免許は西洋医学のみになる) | |
1875年 | 漢方医存続の運動が展開され始める。浅田宗伯ら漢方六賢人の会合。 | ||
1876年 | 新たに医業を行うには洋方六科試験合格が必要との事を内務省が通達(ただし、漢方医は一代限り既得権を認める)。 | ||
1877年 | 西郷隆盛が西南戦争を起こす。 | ||
1879年 | 漢方医山田業広、浅田宗伯ら同志をつのり、漢方存続運動の結社、「温知社」を東京に設立。 浅田宗伯【折衷派】、生後間もなく全身痙攣をくり返し、危篤の状態に陥った明宮(のちの大正天皇)の治療に成功。 漢方医浅井国幹【後世方派】、官許を得て名古屋に皇漢医学校を設立。 | ||
ジョン・G・カーの主宰で中国初の西洋医学定期刊行雑誌「西医新報」が発刊される。 | 1880年 | 中国の文献学の専門家、楊守敬来日。中国ですでに散逸・失伝した善本秘籍を日本の旧学廃棄の風潮に乗じ多数収集。 | |
1881年 | 楊守敬、「古逸叢書」の編刊作業に従事。日本で印刷。 浅田宗伯、温知社の二代目社主となる。 浅井国幹【後世方派】、神田に皇漢医学講習所を設立。 | ||
雷豊「時病論」著す。 | 1882年 | ||
1883年 | 太政官布告により「医師資格制度」を法律化。 | ||
楊守敬、考証学派の数々の研究書など、厖大な量の日本の書籍を中国に持ち帰り紹介宣伝、以後、中国医籍の校刊に不可欠な資料となる。 唐宗海(容川)「血証論」著す。 | 1884年 | ||
1889年 | 大日本帝国憲法が公布される。 北里柴三郎が破傷風菌を発見し、血清療法を完成する。 | ||
朱沛文「華洋臓象(腑)約纂(別名:中西臓腑図象合纂)」著す。(中西両医学を無理に結合するのは不可の思想) | 1892年 | ||
鄭寿全【火神派】、「傷寒恒論」著す。 | 1894年 | 日清戦争が起こる(~1895年)。 | |
1895年 | 第8回帝国議会にて、漢方医提出の「医師免許規則改正法案」27票差で否決。これにより、漢方医学は断絶の危機に。 | ||
柳宝詒(りゅうほうたい)「温熱逢源」著す。〔伏気温熱派〕 | 1900年 | 治安警察法が出される。 | |
袁世凱、天津に「北洋軍医学堂」を設立。 | 1902年 | 日英同盟 | |
京師大学堂に「医学実業館」が併設され、1905年に「医学館」、1906年に「京師専門医学院」へ改称。中西医学を分習。 | 1903年 | ||
1904年 | 日露戦争が始まる(~1905年)。 | ||
丁福保、日本医書を翻訳。 | 1908年 | ||
丁福保、「中西医学研究会」創立。 | 1910年 | 和田啓十郎(1876年~1941年)【古方派】、「医界の鉄推」著す。漢方復興の端緒となる。 日本韓国を併合。 | |
鄭寿全の弟子、盧鋳之(1876年~1963年)【火神派】、成都に私塾「扶陽医壇」を開き、呉佩衡(1886年~1971年)、祝味菊(1884年~1951年)、範中林(1895年~1989年)、唐歩祺(1917年~2004年)などが参加。 | 1911年 | ||
袁世凱、新生中華民国の臨時大総統に就任。 | 中華民国 | 1912年 | |
北洋政府、中医の廃止を主張し、全国の中医薬界の強い反対を受ける。 | 《大正時代》 | 1912年~1914年《1912年》 | 明治天皇が亡くなり、大正天皇が即位。 |
張錫純(ちょうしゃくじゅん)、「医学衷中参西録」(臨床医学分野の中西交流派の代表作。病名や症状は西洋医学に依り、治療は中医の処方に従う。)なる。 | 1909年~1924年《1914年》 | 第一次世界大戦が起こり、日本も参戦する。 | |
惲鉄樵、〔経典傷寒派〕「傷寒論研究」著す。朱沛文の思想をさらに進め、中西両医学は互いに異なる学術思想体系と主張。 | 1924年 | ||
北洋政府、医学教育に中医課程を編入することを拒否。 | 1925年 | 普通選挙法が成立。治安維持法が定められる。 | |
《昭和時代》 | 1926年 | 大正天皇が亡くなり、昭和天皇が即位。 | |
1927年 | 湯本求真(1876年~1941年)【古方派】、「皇漢医学」著す。 | ||
毛沢東、「井崗山的闘争」の中で、医療における「中西両法治療」を主張。 | 1928年 | ||
国民党政府衛生部、中央衛生委員会「旧医廃止案」を提出し、全国中医薬界の激しい反対にあい撤回。 | 1929年 | ||
紅軍、陜西(せいせん)省北部に到り、衛生行政機構を整備。延安中医院および各県医院を設立。 | 1935年 | ||
国民党政府「中医条約」領布。 | 1936年 | 二・二六事件が起こる。 | |
1937年 | 盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が起こる。 | ||
1938年 | 大塚敬節(1900年~1980年)【古方派】、矢数道明(1905年~2002年)【後世方派】ら東亜医学協会設立。 国家総動員法成立。 | ||
1939年 | 第二次世界大戦が始まる。 | ||
1945年 | ポツダム宣言を受け入れ、連合国に無条件降伏する。 | ||
中華人民共和国成立。中央人民政府衛生部を設立。 | 中華人民共和国 | 1949年 | |
1950年 | 日本東洋医学会設立。大塚敬節【古方派】、矢数道明【後世方派】、奥田謙蔵【古方派】、細野史郎【折衷派】ら中心。 | ||
1972年 | 日中国交回復。 | ||
1976年 | 漢方エキス剤が薬価基準に収載される。 |
参考文献 中国医学の歴史 主編:傅維康 副主編:呉鴻洲 東洋学術出版 漢方の歴史 小曽戸洋 大修館書店 中医伝統流派の系譜 黄煌著 東洋学術出版 医理真伝編註 小金井信弘編著 星雲社 まんが中国医学の歴史 山本徳子原作・監修 医道の日本社 その他。